『臨死!!江古田ちゃん』を見ていると、西武新宿線と西武池袋線の間くらいの場所に強烈に住みたくなる(そこまで本気ではないからヴァーチャルな感覚なのだが)。私は田舎者なので本当のことはわからないけれど、あそこら辺では江古田ちゃんに象徴されるような人々が「おしゃれ」に暮しているのだろう。このような認識は、紙谷高雪氏による『江古田』レビューに強く影響されている。

このように、一部の人間にとっては江古田はアリスでありアイドルなわけだが、このノリはどこまで一部の人間以外に向けて翻訳可能なのだろうか。昭和のはじめに十勝で生まれ、その生涯を十勝で生き続けた私の祖母に、この漫画のノリは理解できまい。ばあさんの理解力がないとかそういう問題ではないぞ。この漫画は、きっと私と同年代の人にもわかりずらい要素があると思うし、偉そうなこと書いている私自身良くわかっていない恐れが大だ。

『デトロイト・メタル・シティ』は田舎者が渋谷系にあこがれて、2000年代に(ここ大事)上京する話だ。表向きはメタルを題材に採っているけれど、渋谷系という時代(が短い期間のうちに流行り、熱中したわりにすぐに過ぎ去っていった)がもつむずがゆさを、本当にうまく笑い飛ばしてギャグとして料理している漫画だと思う。そしてこれに関しても、私は本当にそうであるか自信がないのだが。

江古田ちゃんみたいな生活のあり方を奇とする(良いと思うという意味ですよ)人間は、いつまでも再生産されないかもしれない。渋谷系みたいに、いつかすぐ先の未来で、何だかよくわからなくなって退潮してしまうかもしれない。だからこそそういうところを活写する『江古田ちゃん』や(あるいは渋谷系という時代を活写した『デトロイト・メタル・シティ』)は、何らかの社会的責任を背負って江湖に立ちあらわれている(いた)のだ。

そういうところを題材に採るのはちょっと卑怯な気もするけど、でも一方で大事な立ち回りだとも思うのだ。
街にある古物商が閉店処分セールをやっているということで行ってみた。

昨日は終業後に同僚と一緒に行ったが定休日だった。今日改めて行ってきた。

店主(らしきおっさん)に聞くと、なんのことはない、7月には移転し営業を続けるのだそうだ。閉店から移転再営業までどんなドラマがあったかは知らないけれど、ちょっと拍子抜けしてしまった。

お店の中を見ると、だいぶ片づいてしまっていていた。それでも結構物はあった。

少し前まで当たり前に使われていたものも、いまでは相当珍しいものになってしまっていることに気がつく。高度経済成長という激変の時期をまたぐとは言え、道具・室礼・衣類などの興亡には驚かされる。土偶が何のために使われたかわからないのと同じように、きっとわりと直近の時代の道具も、どう使うか(あるいはどう作るか)すぐにわからなくなってしまうのだろう。

思想も同じで、いくらか前にはやった考え方や行動様式のあり方に対しても、基本的な体系は情報として残っていても、それに対し我々はどう捉えていいのかわからなくなってしまうのではないか。とか考えました。
ぶりぶり。ぶりぶり。ぶりぶり。


職場でうんこしていると(とはいってもデスクでうんこしているわけではない)、トイレットペーパーの先端が三角に折りたたんであることに気がつく。これは掃除の方が畳んでくれているものだ。勿論、やりたい人は自分でも畳んでも良いのだろう。しかし基本的には、この三角折は掃除をしたのだというサインだ。うんこする側がおる積極的なメリットはない。

掃除のおばさんの業務は専門的だ。我々が安易にその世界に踏み込むことはまかりならない。もし本気で掃除の道に進みたいと考える場合以外は、少しの好奇心が逆に相手に失礼になるかもしれない。

でもまぁ掃除のおばさんは意外に優しくて、我々うんこする側の者による、掃除の世界への入門を快く受け入れてくれるかもしれない。そこには、知識や技術を先行して持つものが有しがちな選民思想のようなものは、あるいは存在しないのかもしれない。
2012.05.04 きらめく風に
きらめく風に
寄り添うハッピーライフ
憧れに手を
伸ばしてみれば
世界が廻り 心が躍る
夢に近づく
ときめき胸に抱えて

あなたと街で 
出会うよろこび
さがして ウフフーフ 
見つけて ウフフーフフ

あなたの街で 暮らしの中で いつも輝く 
ホ ホ ホーマック!!!!


どんな時でも 
素直になって
今すぐにーほらっ
出かけてみれば
昨日がひかり 今日がほほえむ 
空を見つめて 
明日の夢を信じて

あなたと街で 
出会うよろこび
さがして ウフフーフ 
見つけて ウフフーフフ

あなたの街で 暮らしの中で いつも輝く 
ホ ホ ホーマック!!!!



名曲である。私は帯広スーパーデポ稲田店が好きです。あと滝川のも好きです。
同輩の女性と飲みに行ったとき、「異性に対する幻想」について良く話をする。

男が女に向けて持つ「女子への幻想」は、私は男なのですげー納得がいく話だ。体毛の処理の話とか、私には蒙昧としてにわかに判然としがたい話だ。

この話の焦点はつまるところ、男女交際をするさいに、一般的な「男子幻想」や「女子幻想」を優先してしまい、交際相手自身の性格を蔑ろにしてしまうのは良くないということになるのだろう。



ま、でも相手に対して適度に幻想を抱いた方が、恋愛の燃料になるような気がする。理論と実践のバランスが大事だ。







いきなり話が変わるようで変わらない話をする。

漫画やアニメで男が女風呂を覗く行為についてだぞ!

ひゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!

ここで大事なのは、男風呂と女風呂とが天井とかが連続していて、女性の声や様子がうかがえる構造になっていることだ。あるいは露天風呂だったら、仕切り越しに女性の声が聞こえてくる構造。

ジャンプの漫画とかだと典型的なのだが、男が風呂に入っていると、女風呂から女性同士の会話(スタイルの良さや肌の白さや胸の大きさに関する話)がキャッキャウフフと聞こえてくるわけだな。そこでそれを聞いた男どもがどうにかしようとして、物語は進展していく。

物語の進展の仕方は色々あるだろうからここでは措くとして、とにかく天井が通じている銭湯は、男子が持つ女子への幻想を最大限に掻き立てる構造であるといえる。

さらにこの構造は、なんというか奥ゆかしさがある。あくまで天井の向こう側、仕切りの向こう側は入ることのできない別世界なのだ。現実的には女湯には男のわからない世界がある。男で女湯に日常的に入って女湯に通暁している人間はいない。銭湯の壁は一方で妄想を惹起させる装置であると同時に、また一方で現実にはそんなことありえない(というかよくわからない)と、ふと人を冷静にさせる装置でもあるのだ。そういうエクスキューズが銭湯の構造にはある。幻想をかきたてられつつも、それが幻想であるとしっかり示してくれる。銭湯の壁はまことに良心的な仕組みにある。だからこそ、漫画などにおける銭湯での覗き未遂行為はある程度定番の地位を保持しているのだろう。実際の世界で、覗き行為が横行することは少ない(と思うけどどうなんだろ)。ヴァーチャルとリアルとがわかりやすく峻別されているので見ていて安心できるのだ。

最近は欲望が果てしなく直截的になって、幻想を喚起させかつ幻想であると知覚できるガジェットであるところの銭湯の壁を取っ払ってしまう、初めから混浴のような雰囲気の漫画も結構見かける。

でも実際混浴だと女の人じろじろ見るわけにもいかなくて、それでも女性は目の前にいるわけで、幻想を抱きにくいのだ。なんでもかんでも混浴にすればいいってもんじゃねえぞこれ。女の人の声が聞こえるくらいがちょうどいいんだぞ。

上が空いている壁大事。幻想と現実との、感覚のメリハリをつけてくれる。